「犯罪原因論」と「犯罪機会論」から見る「縁起」

 最近、こんな本を読んでいる。

 著者の小宮信夫氏は、日本で数少ない「犯罪機会論」の研究者。「犯罪機会論」という耳慣れない言葉の意味について、本書では以下のように説明している。

犯罪学では、人に注目する立場を「犯罪原因論」、場所に注目する立場を「犯罪機会論」と呼んでいる。犯罪原因論が「なぜあの人が」というアプローチから、動機をなくす方法を探求するのに対し、犯罪機会論は「なぜここで」というアプローチから、チャンスをなくす方法を探求する。つまり、動機があっても、犯罪のコストやリスクが高くリターンが低ければ(=犯罪の機会がなければ)、犯罪は実行されないと考えるわけだ。

 いつも小宮氏が強調するのは、「人を見るな、場所を見ろ」ということ。日本で事件が起きると、いつも「不審者がいなかったかどうか調査」し、犯人が捕まると「なぜあの人が」となることが多い。これは、犯罪が起きる原因を「人」に求めているから。小宮氏は「“人は見かけで判断してはいけない”と言いながら不審者を探すなんておかしいじゃないか」と言う。

 小宮氏は、「その人が悪人だった」から犯罪が起きるのではなく、「犯罪が起きやすい場所だった」から起きるという。「だったら、犯罪が起きにくい場所を増やせばいい」というのが小宮氏の主張だ。

 ところで私は、この話を聞きながら「人を見るな」ということについて考えていた。この言葉から連想したのは、仏教における「縁起」という考え方だ。

 日本大百科全書によると、仏教の中心思想としての「縁起」の説明は以下のとおり。

般若経(はんにゃきょう)』群の一切皆空(いっさいかいくう)説が名高い。この説はナーガールジュナ(龍樹(りゅうじゅ)、2〜3世紀の人)によって、縁起説と密接に結び付けられて深化しかつ拡大し、縁起―無自性(むじしょう)―空(くう)として確立した。すなわち、いっさいのものはそれぞれ他のものを縁としてわれわれの前に現象しており、しかも各々が相互に依存しあっていて、その相依関係も相互肯定的や相互否定的(矛盾的)その他があり、こうしていかなるもの・ことも自性を有する存在(実体)ではない、いいかえれば空であり、しかも、そのあり方もいちおうの仮のものとして認められるにすぎないとし、そのことの悟りを中道とよんでいる。(一部抜粋)

  平たくいうと「(この世に)実体としての存在はなく、それぞれが相互に関わりあい、その関わりの中で仮に存在するとされている」ということ(だと思う…が、私の中途半端な解釈なので、もし間違っていたらご指摘お願いします)。

 とすると、最初から「犯罪者」というものが存在していたわけではなく、あらゆるものが関わり合った(=縁起)結果、「犯罪」という現象が起きた(ように見える)ということではないか。

 これは、犯罪に限ったことではない。新聞やネットを見ると、政治家や経営者の「人となり」を云々する情報をよく見るが、「人となり」を知ったところでなんということはない。見るべきは、そこで起きている「現象」そのものであり、その現象に至る縁起ではないか。「人」は、その現象の上にたまたま乗っかっているだけ。もちろん、別の人が乗ればまた違った現象が起きるだろうが、その場合の「人」も「縁起」のうちの一つ。主体として扱いべきものではない。

 …なんてことをつらつら考えていると、「もう人なんてどうでもいい」とまで思えてきてしまった。「人なんて」の中にある「人」には、自分も含まれる。「私」も、あらゆる縁起の中から生まれた現象のひとつ。であれば、どう生きたっていいじゃないか…といっても、別にやけっぱちになっているわけではない。実際はその逆で、より自由になれるということなのだ。それはなぜかというと…と書き始めると長くなるので、また別の機会に。