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鈴木大拙館で手に入れたリーフレット資料

 鈴木大拙館には、いくつかリーフレットが置いてある。そのテキストを書き起こしたので、ここに記録しておこう。

鈴木大拙のことば22
単なる論理はけっしてわれわれを動かさない。そこには知性を越えた何かがなければならぬ。(禅)

 鈴木大拙のことば23
如何なる働きをする場合にも、目的を意識する時は、自由でなくなる。自由であるということは無目的を意味するが、勿論、放恣という意味ではない。目的という観念は人間の知性がある種の働きの中で読み取ったものである。(続・禅と日本文化)

 鈴木大拙のことば24
実にこの世は一大家族にして、われわれひとりひとりがそのメンバーなのである。

 数学的にいうならば、一という数は、無限に在する他の数と関係しない限り、一ではなく、それ自身ではありえない。一つの数それ自体の存在などということは考えられない。これを道徳的もしくは精神的にいえば、それぞれの個人の存在は、その事実を意識すると否とにかかわらず、無限にひろがり一切を包む愛の関係網に、なんらかのおかげをこうむっているということである。そしてその愛の関係網は、われわれのみならず、村材するすべてを漏らさず摂取する。実にこの世は一大家族にして、われわれひとりひとりがそのメンバーなのである。(禅)

鈴木大拙 「自由」と「平和」

戦後70年にあたる本年に開催する当展は、鈴木大拙の書・著作・写真集を展示しながら、現代の私たちが抱える問題を考える上で手がかりとなる大拙の語りに着目します。

日本および東洋の文化や思想を西欧世界へひろく伝えた大拙は、常に東洋・西洋という対立を考える視点を持ち合わせていました。こうした視点を持ちながら、西欧世界において英語で発することばと自身の存在がひとつになって語るその姿に、大拙の思想が反映されています。

自由の反対は束縛、また平和の反対は戦争だと一般的には考えられています。しかし、何かとの対としてみる限り、本来の「自由」「平和」ではないと、大拙は言います。また、liberty(リバティ)、freedom(フリーダム)は、一般的に自由と訳されてますが、束縛から解放される(○○から離れる)という意味ではある限り、まだ「自由」ではない、と大拙は説きます。○○から離れるという見方では、まだ○○に私たちの心が捉われているためです。なにものにも心が捉われない見方を説き、そうした心のあり方が重要だと述べる大拙は私たちたちに「自由」と「平和」の指針を示します。

2015年度 鈴木大拙館企画展『大拙の願いー自由と平和ー」

鈴木大拙「自由と平和」に関する資料 書/自由と平和の鐘


 1889年から約2年、大拙石川郡美川町(現・白山市)の徳証寺に下宿し、小学校の英語教師をしていた。まだ大拙以前の貞太郎青年だった頃である。
 現在、寺の梵鐘には戦後直後の1946年に大拙によって書かれた英語による書「自由と平和の鐘」(The Bell of Peace &Liberty)が刻まれている。
 大拙は、本来の「自由」について繰り返し説く。「自由」とは「消極的・受け身的なもの」ではなく、また「拘束とか規範とか束縛など」とはまったくかかわりがないという。
 「自由」の意味を「積極的に、独自の立場で、本奥の創造性を、そのままに、任運自在に、遊戯三昧する」という大拙にとって「自由」は「平和」そして「創造」につながっており、そうした「自由」をまずははっきり知ることが生きる上で大切なものだと語る。

鈴木大拙「自由の意味」「新編東洋的な見方」参照

 鈴木大拙「自由と平和」に関する資料 書/無事
 無事とは何も事がないということではない。どんなことがあっても、どんなに事があっても無事ということ。寝て、起きて、食べるだけでなく、それと同じように、死ぬことも無事であるというそのような無事である。仏教で生死事大と言われるその生死が無事だという無事である。
 「大拙は死ぬのに覚悟はいらない」と言う。死から生きる存在の坐りがあってこのように言えるのであろう。「平常心(びょうじょうしん)」、「無事之人」などもこの同じ趣旨を表す。生きられる無のこの方向が特に強調されると、禅でしばしば言われる「閑」「遊」などのあり方が際立ってくる。居るか居ないかわからないほど、大拙は静かであった。しかし、無事とは生きられる無であるから、大拙はまた無から生きる働きの積極性、「無作の作」の妙用、創造的自由を強調した。実際の機に臨んでの大拙のはたらきの鋭さが居合わせた人たちに忘れがたい印象を残している。

鈴木大拙「自由と平和」に関する資料 書/よしあしの中にこそあれ夕涼み
 「良し悪しのさ中に (我らの)あればこそ 涼しこの夕風」の意。この句は、大拙が深く敬愛した江戸時代の禅僧・仙崖による。
 大拙はいう、「人間であることの特権は、善を悪から分別しうることである。そして、この分別能力があるからこそ、善悪の二者を超越して、無垢の世界に生きることができるのだ。繰り返しいわねばならない。超越とは、放棄、放置、無視、無関心というようなことではないと。そして、空虚の中では「夕納涼」は楽しめないのだと」

鈴木大拙「仙崖の書画」(月村麗子・訳)より

「西洋のリバティやフリーダムには、自由の義はなくて、消極性をもった束縛または牽制から解放せられるの義だけである。それは否定性をもっていて、東洋の自由の義と多いに相違する。
 自由はその字のごとく「自」が主になっている。抑圧も牽制もなにもない、「自ら(みずから)」または「自ら(おのずから)」出てくるので、他から手の出しようのないとの義である。自由には元来政治的意義は少しもない。天地自然の原理そのものが、他から何らの指示もなく、制裁もなく、自ら(おのずから)出るままの働き、これを自由というのである。

「自由・空・只今」「新編 東洋的な見方」

鈴木大拙「自由」に関する資料 陶書/平常心

 ひとりの僧が「平常心とは何でしょうか」と問うた時、師は答えて言った。「飢えては食し、渇いては飲む」これは一種の本能的無意識の生であって、そこには知性もしくは思慮の働きは何もない。もしここでとどまるならば、高度に発達した意識を特色とする人間生活ではないであろう。意識的でありながらしかも無意識であることーこれが「平常心」である。

鈴木大拙「悟り」(「禅」工藤澄子・訳)より

鈴木大拙「自由」に関する資料 書/平常心是道

「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」は、唐代の禅僧・趙州の師弟の問答に由来する。弟子・趙州が「道」について師である南泉に尋ねた。

趙州「道とは何ですか」
南泉「おまえの平常心、それが道だ(平常心是道)」
趙州「それには、何か特別の修業の方向づけがありますか」
南泉「ない。向かおうとすれば、すでにそむく」
趙州「もし向かわねば、どうして道を知り得ましょうか」
南泉「道は、知にも属さず、また不知にも属さない。知は迷いであり、不知は無智である。疑いの影さえささぬ道に到れば、おまえは、それは無限に拡がるー大虚空のごときものだと知るであろう。かぎりなく空で、善悪の入る余地もない」

鈴木大拙「悟り」(「禅」工藤澄子・訳)より

鈴木大拙「自由」に関する資料 自由の意味
ー先年アメリカで出た小説みたいな本に、子供の生活を描いたのがあって、それが一時は、ベストセラーになった。その中に、次のような会話がある。子供がしばらく留守し、帰ってきたので、家のものが尋ねた。
「お前どこに行っていたの?」
「外にいた」
「何していたの?」
「何もしていないの」
 これだけの会話だが、自分はこれを読んで「ここに東洋的「自由」の真理が、いかにも脱酒自在に挙揚せられている。実に菩薩の境地だ」と感心した。

鈴木大拙「自由の意味」(新編 東洋的な見方より)

(参考:http://www.sakai-journal.co.jp/274/01.htm
 鈴木大拙は、アメリカで、子供の生活を描きベストセラーになった本から、次の一節を紹介し、そのあじわいを賞讃しています。
 子どもがしばらく留守し、帰ってきたので、家のものが尋ねた。「お前どこへ行っていたの?」(Where Did You Go?) 「外にいた。」(Out.)「何していたの?」(What Did You Do?) 「何もしていないの。」(Nothing)
 ここには、生きて、動いて、働いて、しかも何もしなかったという世界があります。すなわち主体のままに働き、しかもその働いたということに何もとらわれていない世界があります。それこそ自らに由るという本来の意味での「自由」の世界にほかならないでしょう。大拙は自由ということは、「積極的に、独自の立場で、本奥の創造性を、そのままに、任運自在に、遊戯三昧するの義を持っている」とも指摘しています。

鈴木大拙「平和の実現」
 74歳で終戦を迎えた大拙は、その後20年以上、戦後の日本を見続けました。
 新しい日本の建設ということは重要なテーマでありましたが、それ以上に、一国内の問題ではなく世界における平和に対し、仏教哲学者として何をなすべきかを問い続けました。
 「平和の実現につきて」という文章において、「人間は自分で自分を作るものだ」「人間の人間たるところはその創造性にある」と述べる大拙は、「創造の世界に入ることによりて、またよく自由の真義に徹する。この境地以外には自由はない」、そして「この境地でまた平和を説くことが可能になる。平和・自由・創造…いずれも相繋がっている。その一つが得られると、他は自らついて来る」と私たちに語ります。

鈴木大拙全集「増補新版」第33巻所収

鈴木大拙「平和の実現」に関する資料 写真「金沢市新竪町小学校の児童たちと」1954年 大拙84歳

 1954年10月8日、当時一時帰国していた84歳の大拙は故郷の金沢を訪れ、自分が学んだ本多町小学校(現・新竪町小学校)で子供たちに話をした。子供たちと大拙との間には70数年の年の隔たりがあるが、それは隔たりではなく、この小学校での子供時代から大拙自身が生きてきた年月である。子供たちとこのように共に在って、大拙は遥かな遥かな自分の子供時代に戻って、子供時代がこのときの大拙の現在になる。子供たちと一緒に子供の大拙と84歳の大拙とが共に居る。大拙は年をとらない。永遠を今に生きている。そして、84歳の大拙は、自分が経てきた何十年という歳月をこれからの未来としてもつこの子供たちを、その未来に向かって静かに護っている。不思議な時間と空間がここにある。

上田閑照・岡村美穂子「相貌と風貌」より

 写真の大拙は、ロンドン仏教協会での講演の準備をしている。くつろいだ大拙の様子がうかがえる。
 クリスマス・ハンフレーズとはどのような人物だったのだろうか。
 裁判官や検事を勤めていたが、若いときから仏教に関心を寄せ、英国仏教会の基礎を築き、ロンドン仏教協会を主催していた。大拙の英文「禅論集」三巻に触れてからは禅と大乗仏教が関心の中心になり、殊に1946年北鎌倉で直接大拙に親灸するようになってからは、大拙の英文著作の出版を生涯の使命とした。大拙はヨーロッパ旅行の折りにはロンドンに必ず立ち寄った。

上田閑照・岡村美穂子「相貌と風貌」より

鈴木大拙「平和の実現」に関する資料 「ミミを抱いて牡丹の前で」

 大拙は牡丹が大好きだった。書斎が増設されるとき、牡丹の木の移し替えが必要とされたが、大拙は「書斎が狭くなってもかまわん、牡丹をそのままにしてほしい」と言った。大拙は寸暇を惜しんで、豊かに咲き開く牡丹を心ゆくまで愛でた。花の盛りを過ぎると大拙はいくつかの花びらを押し花にして、禅籍にはさんで大切にした。