「天才が語る」(ダニエル・タメット)その2

数学的な考え方について

 ガリヴァンが教えてくれたように、数学的な考え方はなにも数学者のためだけにあるわけではない。この章では、正確かつ創造的な推理をおこなうことがだれの役にも立つことを示していきたい。数学的に考えることは、宝クジの確率から投票制度の良し悪しにいたるまで、複雑な現実世界のあらゆる事柄を理解するうえで役に立つはずだ。さらに、神話としてひろく知れ渡っている多くの誤謬と、そうした誤謬が実はまったく筋が通っていないという事実を探っていきたい。そして、だれもが思考力を伸ばし、よくある間違いを犯さずにすむ方法についても述べていきたい。まずは、いちばん大事な統計学の用語と概念について、そしてそれを利用してよき思索者になる手がかりを探っていこう。

人はどうして理不尽なものを信じるのか

 アメリカの作家マイケル・シェルマーは、人がどうして「理不尽なもの」を信じるのか、について本を書いた。そのなかで彼は、「理不尽なもの」には、専門家によって退けられたもの、理論的にありえないもの、絶対に起こりそうにないもの、証拠が不十分なあるいは逸話の領域を出ていないもの、の4つの種類があると指摘している。そして「理不尽なもの」を信じるのは、人の知性とは関係がなく、聡明で高等教育を受けた人も、そうでない人と同じように「理不尽なもの」をたやすく信じてしまう、と述べている。

 人は、たとえば選挙人制度よりも一般投票を支持するといったように、すぐれた案よりも劣っている案をなぜ受け入れてしまうのか。その大きな理由は、単純なものを好むという人間の性質による。とても単純でわかりやすい案と、表現が難しくなかなか理解できない案があれば、大半の人は、案の良し悪しにかかわりなく単純な案を選ぶ。

 単純なものを好むのは、不可解なまでに複雑に絡み合っているこの広い世界では当然のことに思われる。多くの人は、単純な案がある場合、わざわざ複雑で緻密な案を選んで難しい議論をする時間などないと思っている。さらに、よい案は単純なものだ、という格言を信じている人もいる。「オッカムのかみそり」(多くの説明やアイデアのなかからひとつを選ばせると、人は必ずいちばん単純なものを選ぶ、ということを述べた哲学的立場。もともとは不要なものは切り落とすべきだ、とするオッカムの考え方からきている)と同じように。

 偽の命題について

 偽の命題(欺いているものや筋違いのもの)はしばしば巧妙に入り組んでいるので、その見分け方には十分に注意する必要がある。論証の過程に不合理な部分や説得力がないといった血管のある命題は、誤謬として知られている。恐ろしいのは真実のように見える誤謬だ。実際、そういった誤謬は数え切れないほどあって、ここに挙げきれない。それでも、よく見られる重要なものを以下に挙げておこう。なにかのときにきっと役に立つと思う。
 誤謬でよく知られているのは、人を混乱させて、他の選択をさせなくするものだ。その典型的な例が「誤った二分法」で、「あなたたちは厄介事を引き起こす側か、厄介事を解決する側かのどちらかだ」(訳注・1968年の大統領選挙で使われた)というような言葉が使われる。こうした白か黒かの言い方をされると、注意深く考えたり微妙な面を考慮したりすることができず、ワンパターンの反応しかとれなくなる。
 別の誤謬は、考えなり問題なりの長所を説明しないで、感情に訴えるものだ。たとえば次の文は「因果関係に訴える論証」と呼ばれている。「進化論は真実ではありえない。なぜなら、進化論が真実なら、人は猿と変わらないことになる」。
 「アド・ホミネム」(本来は「人間に対して」という意味のラテン語・人身攻撃という意)は、ある論そのものを批判するのではなく、その論を主張している人を攻撃して、提示された論自体を検討しないですませる論法だ。「ミスター・スミスは地球平面協会(キリスト教の一派)の有名な会員なので、彼が言うことはなんであれ意味のないことだと思って差し支えない」など。
 批評家が特定の議論や発想に言及するとき、その議論や発想をそのまま引用せずに誇大に解釈してみせることがよくある。こうした詭弁を「わら人形論法」という。「環境保護主義団体は、産業の発展を阻止しようとしている急進的なヒッピーの集まりにすぎない」などがそれだ。
 多くの議論に類推が使われている。あるものに特定の特性があるのは、それとよく似たあるものに同じ特性があるからだ、とする論法だ。しかし、そういった不正確な比較には十分に注意しなければならない。さもないと「誤った類推」として知られる誤謬にだまされてしまう。「無神論者はボルシェビキと似ている。ボルシェビキが神と倫理的規範を信じないように、無神論者もアナーキズムに陥りやすく不道徳な行為をしがちである」といった論法。
 「ディクソン効果」については前に述べたが、多くの人々が、実際にはなんの関連性もない出来事に因果関係を見出そうとしてしまう。「Post Hoc Ergo Propter Hoc(ラテン語で「その後に、従ってそれ故に」)は、この種の因果関係の誤謬の典型といえる。ある事柄は別の事柄の後に起きたので、その別の事柄が、ある事柄の原因になっていると推測することだ。たとえば「大統領はテキサス州での遊説中にカウボーイ・ハットをかぶらなかった。それでその年の大統領選でテキサス州の票を失った。カウボーイ・ハットをかぶってさえいたら勝てたのだ!」というもの。
 論理的な誤りが、カテゴリー錯誤によって起きることもある。あるものの全体の特徴は、その一部にも同じように備わっている。あるいはその逆も真なり、と信じることだ。「カトリック教会は非常に保守的だ。だから、カトリック信者は非常に保守的だ」、あるいは「彼女の息子のひとりはいつも面倒を起こしている。だから息子全員が悪い奴にちがいない」という論法だ。
 もしかしたら、もっとも避けなければいけない重要な論理的な誤りは、ぼくたちの使う定義が明確でないために起きることかもしれない。

論理的思考とは

セーガンは、自分が生涯をかけて科学に注いだ愛情を、魅力的な科学の性質の産物だ、と述べいる。その産物とは、正反対のように見えるふたつのものの組み合わせだ。「どんな理不尽なものであろうとあらゆる発想に対して心を開き、驚嘆することだ。と同時に、真剣に徹底的に疑うことだ。なぜなら、発想の大半は絶対に間違っているからである」
 この絶妙なバランスー美しいものに心を開き、新しい発想やこの世界への見方、理解の仕方に驚嘆し、それから立ち止まって分析し、検討し、そして疑問に思うことーこそが、筋道を立てて考える極意なのだ。論理ーぼくの見方が間違っているのならいいけど、これはたいてい冷淡で計算高いものだと思われているーは、愛と信頼の不思議、人生を送るうえでつきものの多義性さから人を引き離してしまうものではない。