その写真を「見たくない」理由

 2月1日以降、SNS後藤健二氏に関する情報が溢れている。私は直接、後藤氏を知っているわけではないが、私の知り合いの多くは後藤氏の友人であるらしい。Facebook上で、某氏の「今日1日、しっかりと過ごして欲しい。扇情的なマスメディアに惑わされずに、静かに過ごして欲しい」というメッセージを見て、彼らがどんな気持ちで過ごしているのかがよくわかった。そんな訳で、後藤氏の事件に関しては、少し身近に感じてしまっている。

 ところで、まだ後藤氏の生死が明らかにされていなかった2月1日の朝4時頃、私はこんなツイートを書き込んだ。

後藤さんのことを心配するこの気持ちは、先日哲学カフェで竹村先生が言っていた「命への共感」。後藤さんが今、生と死の狭間で苦しんでいる。そのことを思うと、ただ忍びないと感じる。とても耐えられないと思う。これは、正義ではなく、魂の根底にある思い。正義より、もっと揺るぎないもの。

  1月後半、SNSをみると、この事件についていろんな人がいろんな意見を書いていた。彼を英雄扱いする人もいれば、批判する人もいた。それを見て、私は「ちょうど原発の事故のときのようだ」と思った。意見に幅がありすぎて、何が正しいのかわからなくなる。しかし、それもそのはずで、正義云々を議論し始めると、なにしろ人の数だけ正義は存在するのだから、とても埒が明くものではない。だから、正義を論じるのではなく、ただ「忍びない」と感じるこの気持ちを信じようと、そう決めてツイートした。そのすぐ後に、例の一報が報じられた。

 正直、この報道はつらすぎて受け止められなかった。ほとんど関わりのない私でさえそうなのだから、ご家族や友だちはいかばかりだろうと思った。そういった意味では、私の共感はこのとき、後藤氏から後藤氏のご遺族、ご友人へと移っていったのかもしれない。彼らの悲しみを想像すると、まさに「耐えられない」「忍びない」と思った。

 そんな状態だから、彼らがYouTubeに配信した動画を見るなんてとんでもないことで、絶対に見ないと決めていた。もちろん、ご遺族やご友人もそう思っているだろうと思った。もし仮に、そんなものを目にしたら、私だったら気が狂ってしまう。だから、絶対に彼らも見ないだろうし、見せてはいけないと思っていた。

 ところが、私が使っているTwitterクライアント「Feather」には、画像を自動表示する機能がついていた。なにげなくTwitterを見ていたら、突然「決して見ない」と決めていた写真が目に飛び込んできた。あまりのことに、思わずアプリを閉じ、そのままアプリごと削除してしまった(しかし後日、画像の表示をオフにする設定があることに気づき、またFeatherを復活させた)。それでもまだ、映像が目の中に焼き付いていて、いつまでも消えなかった。

 次に、パソコンでFacebookを開いた。すると、Facebookも同様で、問答無用に同じ写真が表示された。驚いて、あわててパソコンを閉じた。そんなわけで、決して見たくないと思っていた写真を、二度も見てしまった。そのとき、ふと思った。Facebookには、後藤氏の友だちがたくさんいる。もしかすると、彼らも私と同じように、ふいにこの写真を見せられたりしているのではないだろうか。

 だとしたら、とんでもないことだと思った。とても許されることではないと思った。まるで、さらし首ではないか。なぜ彼は、そんなことをされなければならないのか。また、なぜ彼の遺族や友だちは、そんな仕打ちに耐えなければならないのか。後藤氏の命の尊厳は、なぜ守られないのか。

 この話を友だちにしたところ、彼は「でも、一度は見ておいたほうがいい」と言った。「戦争やテロの本当の悲惨さを知るために。悲惨で気持ち悪くなるという気持ちは、繰り返さないことにつながるはずだから」と。なるほど、そんな考え方もあるのかと思ったが、やっぱり私には違和感があった。彼のいうことも、わからないではない。ただ、それは今いきている私たちの側の都合であって、死んでしまった彼のことや、その遺族、友人の気持ちを慮る気持ちがない。

 この事件のことを、さまざまな人がさまざまな方面から論じている。しかし私は、特になにかを論じるつもりはない。ただ、こんな風に彼の痛ましい写真をシェアすることによって、二度も三度も後藤氏やその遺族、友人たちを苦しめるようなことは、決してあってはいけないと今も思っている。これは、私特有の考え方かもしれないし、特有の感覚かもしれないが。