三省堂の由来

 「論語」の中に、次のような一節がある。

我れ日に三たび、我が身を省みる。

人のために謀って忠ならざるか、朋友と交わって信ならざるか、伝えて習わざるか。

 この言葉を私流に適当に訳すと、次のようになる。

A・人のために行動を起こすとき、誠実さを欠いていないか。
B・友と交流するとき、相手に対して誠実さを欠いていないか。
C・いいかげんなことを人に伝えてはいないか。

 AとBは、とてもよく似ている。友だちに対して誠実であること、また他人に対して何か行動を起こすとき、その相手に対して誠実であることは、どちらも根っこが同じで、他人に対して不義理をしないということだ。Cは、この2つとは違い、自分に誠実であることを求めている。自分がよく知りもしないことを、さもよく知っているかのように語ったり、振舞ったりすることは、誰より自分自身に対して不義理である。

 つまりこの3点は、いずれも「自分や他人に対して義理を欠いたことをしていないか」ということだ。曾子は一日三度、こうしたことについて自問自答し、自分を戒めてきたのだろう。この言葉は、出版社の「三省堂」の語源にもなっている。私の国語の辞書はずっと三省堂だったが、この曾子の言葉は、あまり覚えていない。若い頃は、誰しもプライドが高く、なにより自分を優先したがる傾向にある。そんな時期にこんな内省的な言葉を聞いても、ピンとこないのが当たり前なのかもしれない。

 しかし、それから長い年月を経た現在、ようやく少しこの気持がわかるようになってきた。いや、自分の心や他人の心が少し透けて見えるようになり、この意味がよくわかるようになってきたと表現するほうが正しいのかもしれない。誰かに助けを求められても適当に聞き流したり、友だちの信頼を平気で裏切ったり、よく知りもしないことを得意げに語っている人をみると、どんなに上手に上辺を取り繕っていても、その底が薄く透けて見える。本当に申し訳ないけれど、その瞬間、少しその相手に対して「がっかり」する。そうなってくると、自分も他人から見ると同じように見えるのではないかと心配になる。適当にごまかしてやり過ごしている姿を誰かが見て、「あらら…」と思っているのではないかと思うと、恥ずかしくて顔が赤くなる。だから最近では、できるだけ不義理なことはしたくないと思うようになった。

 ところで本日、twitterで次のような宣言をした。

今、日本中に広がっている批判体質にとことんうんざりしているので、今日から私は決して他者を批判しないと宣言します。たまに約束を破っちゃうかもしれませんが、できるだけ頑張ります。批判しそうになったときは、自分を省みることにします。そしたら、恥ずかしくて偉そうなことはいえないはず。

 この宣言自体が狭義の批判にあたると言われると、正直「ぐう」の音もでない。それでもあえて宣言するには、ちょっとした理由がある。しかしその理由を説明すると、批判になる。だから、ここはあえて理由を説明せず、ただ宣言するだけにとどめておきたい。

 この宣言を実行するのに一番必要なのは、謙虚であるということ。そのために、私も日にみたび、自分を振り返らなければならないだろう。そのたびに、見たくない自分の不義理さを、正視することになるだろう。それはあまり愉快なことではないが、これを続けている限り、えらそうに他者批判を繰り返す大人にはならずに済むだろう。…ああ、この文章も、ちょっとした批判になっている。私もまだまだ、修行が足りない。