5月14日 争わないコミュニケーション

 水城さんのブログに、こういう記述があった。

 NVCという考え方がある。NonViolent Communication。非暴力コミュニケーション。マーシャル・ローゼンバーグという人が提唱している考え方なのだが、もともとガンジーキング牧師らの行動が考え方の基礎となっている。

 これで興味をもち、マーシャル・ローゼンバーグについて調べたところ、こんな動画が見つかった。



 「まず一番最初に手をつけた質問が、“どうして人によっては、他人の苦しみが喜べるのか? どうして暴力を楽しめるようになって、悪と判断した相手を、罰することを英雄的と思うようになるのか? そして、同じ社会の他の人たちはどうして正反対でいられるんだろう? 罰するべき悪い人がいると信じる事ではなく、人々の幸福に貢献することに、彼らは喜びを見出す”。そこで見えたのが、かなり異なった言語と意識を、暴力的な人々と、思いやりのある人々が、それぞれ持っているということだった。」

 最初のこの言葉に心ひかれ、その後の動画を全て見てみた。たいへん共感する部分も、少し疑問に感じる部分もあった。一番おもしろかったのは、この人が北ナイジェリアで争うグループを調停したときの話だ。調停の際、彼はお互いの長に、それぞれの希望をヒアリングした。ところが、彼らは自分の希望を言うのではなく、相手の批判しか口にしなかったという。その批判の中から、彼らの望みを読み取り、それを相手に承認させることで、この争いを調停したという話だ。途中、彼らは相手の分析ばかりにこだわっていたが、自分の立場を正当化するための分析作業を投げだして、人間のニーズのレベルで相手とつながっていることを自覚すれば、争いが必要ないことがわかったという。つまり「もしニーズだけの話をして、誰が正しいか、間違っているかの分析に入らなければ、何だって解決できる」と、彼は言うのだ。

 ところで、私は人を非難する癖がある。これは、おそらく善悪の判断を重んじた両親の影響だと思う。彼らは、私に、「正しく生きる」ということを徹底的に叩きこんだ。だから私は、嘘がとても嫌いだし、約束を破ることを恐れ、義務を怠っていないかどうかをとても気にする。また、そうではない人を見ると、とても非難がましい気持ちになる。しかし、その一方で、それが決していいことではないとどこかで感じていた。誰かを心の中で非難するとき、居心地の悪い気分を味わうからだ。そんなことを気にして生きている自分が、実はあまり好きではなかった。

 マーシャル・ローゼンバーグの動画を見た後、改めて思ったのは、誰がどんな風に生きたところで、私にはまったく関係ないということだった。誰かが時間を守らなかったからといって、そのことについて思い悩むのは私の勝手だ。だから、非難する必要はまったくなかったのだ。しかし、そのことで自分の生活に影響が出て、それがとてもつらいと思ったら、そのときはそのことを相手に正しく伝え、相手にわかってもらえばいい。反対に、誰かが私に対して「変えてもらいたい」と思うことがあったら、そのことを話してもらって、相談しながら変えていけばいい。そのとき、争う必要はないし、自分や相手のことを正当化するための理由を考える必要もない。

 そもそも善悪の判断基準は、マーシャル・ローゼンバーグいわく「8000年も前の人間が、他人より自分を上におきたいと思って考え付いたもの」だという。つまり、何が正しくて、何が間違っているのかなんて基準は、どこにもないということだ。自分と周囲の人間が楽しく生きていられたら、それでなにも問題なし。そのことだけ意識して生きていけばいいと思えば、この人生、なんと楽しく自由なことか。

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